2002年12月号/魚戸おさむ 先生

魚戸おさむ先生ははしもとみつお先生からのご紹介です

 北海道札幌市出身。ファミコン雑誌でカットを描いていたのがきっかけで、「わんぱくコミック」から『忍者じゃじゃ丸くん』でデビュー。以降、少年誌を中心に活躍。平成元年、「ビックコミックオリジナル」に『家栽の人』(原作・毛利甚八)を発表し、青年誌へ進出。植物を愛する無欲な裁判官を取り巻く様々な人間模様を描き、読者の熱い支持を得る。現在は、同誌に『イリヤッド―入矢堂見聞録―』(原作・東周斎雅楽)を好評連載中。

     

誕生日
5月9日
血液型
A型
最近ハマっていること
食の安全・自然の恵み・将来の生き方・健康……地味ですねぇ〜  
最近気になる作家やマンガ
    特になし…寂しい…
愛用画材    
    ゼブラGペン、サクラピグマ筆ペン(細・硬)、ゼブラ毛筆(極細)、トンボ鉛筆(木物語)B、ライオンミスノンW-20、シャープ替芯、三菱Hi-uniB0.5、パイロット証券用インク、トイレットペーパー、etc……

先生も村上もとか先生のもとでアシスタントしてらしたんでえすよね。

 はい。といっても、一番初めにアシスタントとして行ったのは星野之宣先生のところなんです。17歳の時に母親と妹と三人で上京してきたんですが、アルバイトしながら定時制高校に通っていたとき、友達から「星野先生のところにアシスタントにいかない?」って誘われたんです。星野先生はデビュー当時からの大ファンだったので喜んで行きました。でもその時の連載はすぐ終わってしまって、また元の生活に戻ってしまったんです。すると星野先生の編集担当社が村上先生の担当もしていて、村上先生のところで“今度連載を始めるから行ってみないか”と紹介してくれたんですよ。村上先生のところでは当時『熱風の虎』を連載していたんですが、7ヶ月ぐらいで連載が終わったとき、自分のアシスタントという仕事に対しての甘さが身にしみたんで、もっとデッサンの勉強がしたいと理屈をつけて辞めてしまったんです。それでデザイナー学院とかに通っていたんですが、そのうち学校もやめてアルバイトを転々とする生活を送っていました。気がついたら逗子の山奥の飯場にいて、別に現場作業してたわけじゃないですけど……、ある日ふっと“これじゃまずい!”と思ったんです。漫画はそれなりに描いていたのですが、ひとりでやるには限界を感じていたので、もう一度村上先生のところで勉強しようと頼って行ったら、先生も心配して下さっていて、それから7年くらい先生のところでお世話になりました。

デビューはどのように?

 実は気がついたら「ビックコミックオリジナル」で漫画を描いてたってカンジなんですよね。というのは、村上先生のところを出た後、たまたま先に辞めたスタッフの人からカットの仕事をもらって描いてたんですが、それがファミコンとかゲーム関係の仕事で、そのカットでキャラクターを描いてたら、“漫画も描けるんじゃないか”という編集長の判断で、「わんぱくコミック」っていうゲーム雑誌で一本漫画を描かせてもらったんです。漫画のもとになるゲームソフトを渡されて、ゲームなんてやったこと無かったんですが、なんとか描いて載せたら評判が良かったので、“もう一本描いて”って言われたんですよ。そこの編集長は僕が中学時代に好きだった元漫画家で、気分良くその後も何本か描かせてもらいました。そこで描いた最初の漫画を記念にと思って、村上先生のところに見せに行ったら、先生がコピーを貰いたいということだったんで渡したんです。そうしたら、次の日「コロコロコミック」の編集部から電話があったんですよ。あとから聞いたんですが、村上先生は、僕が以前から「コロコロコミック」で描きたがっていたことを知っていたので、その時に来ていた編集の人に作品を見せたら、その人から編集長に渡ったらしく、連絡が来たようなんです。……ただ、ちょっと贅沢なんですが、その後描かせていただいたんですが、そのときの「コロコロコミック」は昔と違ってホビー中心だったんで、自分の描きたいものが描けなくてちょっと辛かったですね。

トントンと漫画の世界に来てしまったカンジですね。

 そうですね。でも、自分が本当に漫画家になれたのは村上先生のお陰もあるんですが、母親の存在が一番だったんじゃないかと思います。母はよくNHK朝のドラマで長谷川町子の『まあねえちゃん』を見て、その中に登場する長谷川町子のお母さんは“私と同じだ”と言っていたんです。その時は何でそんなこと言うのか解らなかったんですが、母が亡くなって、叔母が葬式のため札幌から上京した時に、なぜ母が自分たちを連れて東京まで出てきたか、本当の理由を教えてくれたんです。叔母の話だと母は「おさむは絶対漫画家になりたいと思ってる。将来東京に行くって言ってるけど、あの性格じゃ多分行かないで札幌で埋もれて終わってしまう。だから、私はおさむのために、漫画家にさせるために東京へ行くよ」って言ってたらしいんですよね。それを聞いてびっくりしてしまったんです……母が長谷川町子のお母さんと同じだと言っていたのが解りました。母が亡くなったのがまだ村上先生のところでアシスタントしてた頃だったので、漫画家になった姿を見せられなかったのが一番心残りです。

青年誌に移行したきっかけは……?

 「ビックコミックオリジナル」の『家栽の人』が初めての青年誌での作品なんですが、自分でも青年誌には興味なかったし、何で自分に白羽の矢が立ったのか不思議でした。……話によると当時、青年誌で描ける人間を探していたらしく、たまたま自分は「コロコロ」で連載してたんですが、その作品の中に出てくる学校の用務員のおじいさんの絵が気に入られたみたいなんですよね。『家栽の人』は大人が描けないと成り立たない漫画なので、漫画っぽい絵で大人が描ける作家を探していたらしいんです。編集部としてはダメもとで始めたんですが、描かせてみて意外と人気が出たのでびっくりしたらしいですよ。

原作つきの作品はオリジナルと比べてどうですか?

 内容が面白いと、その面白みをいかに無くさないで描こうかなっていつも考えます。自分がゼロから全部やっていくわけではなく、ストーリーは原作者にお任せしているので、そこから自分がバトンを受け取って、アンカーとして走る作業はなかなか楽しいですよ。原作者や編集者からガバ〜ッて資料が送られてくるんですけど、その限られた資料の中で自分でどうやってそのイメージを読者に伝えられ、絵にしていけるのかっていうのは面白い作業だと思っています。

辛いときとかありましたか?

 「オリジナル」で描いてた時に、どうしても描きたいと思うレベルにいけなくて悩んでいた時期があったんですが、親戚に日本画家の叔父がいるので、ある日、絵を描くという共通点で悩んだことがないか聞いてみたことがあるんですよ。そうしたら、叔父は“漫画のことは解らないけど、同じモノを創る立場で言わせてもらえば、自分の作る作品については、絶対愛情がなければ人には何も伝わらないんだ。技術ではなく、作品に対して恋人のような気持ちが持てなければ、良い作品はできない。自分がその作品を恋人だと思えているかどうか省みてはどうか”って言われたんです。その時は描くことに追われてそんな余裕がなかったんで、言われてすぐどうかって気持ちにはなれなかったんですが、目からうろこが落ちるような感じでした。で、ある時気づいたら、自分の作品をすごく好きになってて、“ああ、叔父の言ったことは、こういうことなのか”って納得できたんですよ。そしたら気持ちが、ぐ〜んとラクになったんですよ。

今後描いていきたいものは?

 将来的には北海道を舞台にしたものを描いてみたいですね。……読んだ人の心が和むような作品を描いてみたいんですよ。最近食品についても興味を持っているので、グルメの話ではなく、食品の安全性や危険性など、現在問題になっているところをついた作品もやってみたいと思っています。

最後に漫画家志望の皆さんに一言アドバイスをお願いします!

 漫画を客観視できる目も大切かと思いますが、やはり自分の描いた作品にどれだけ夢中になれるか、叔父の言った「作品恋人論」が大切だと思います。

ありがとうございました。お友達の漫画家さんをご紹介下さい。

 あたたかい画風とストーリーが、デビュー作品の時から大好きでした。村上先生を通じて知り合えたこと、同じ高校に通っていたこと、未だにご近所という“くされ縁”(?)の石川サブロー先生。大先輩です。


  感動と涙の最終巻!  

 『がんばるな!!!家康』 9巻  581円(税抜き)    小学館ビッグコミック